川端康成の『雪国』を読む
佐藤正午(作家)が川端康成の『雪国』について「よくわからない」と、岩波書店の「図書」4月号に書いていた(「書く読書」第1回)。主人公の島村は無為徒食(ムイトショク:ぷーたろうというか自由業)で、小太りで、妻子持ちで、円満な家庭で、酒も飲まないというのである。たしかに、その人物像ははっきりつかめない。
自分も昔に『雪国』は読んだような気がするが、内容は憶えていない。きっと、はじまりの
- 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
だけ読んで満足してしまったのだろう(どうでもいいことだが、齋藤孝の『声に出して読みたい日本語』では「国境」のルビが「こっきょう」となっているが、正式には「くにざかい」だ。[追記]最新の刷りでは、「くにざかい」と訂正されているらしい。何刷で修正を入れたのかは不明。2004/3/19)。
そこで、いまさらながら『雪国』を読んでみた。短い小説なのに、「ん、文章おかしくない?」とか、「なんで2階に掘りごたつがあるんだ?」とか気になってなかなか進まなかったけれど、なんとか読了。
感想としては、客観的な描写と島村の(私小説的な)言葉を組み合わせたところが(当時としては)新しかったのかなと思った。当時の私小説に対抗した川端なりの最新モードの提示というか、新しい試みだったのだろう。
それにしても、島村というのはどういう男なんだろう。佐藤正午と同じように、どうもよくわからない。さらに、小太りというのが気になる。『雪国』はこれまでに何度か映画化されおり、片岡孝夫が演じた島村は優柔不断な感じで、いい雰囲気を醸し出しているらしい(もちろん、片岡孝夫は小太りではない)。ふむ、片岡孝夫なら観てみたい気がする。
『雪国』が出たのは昭和12年。文学史的には、川端は新感覚派と呼ばれる一派に属し、この一派はプロレタリア文学(労働者階級の解放を目指した流派)の自然主義に対抗するグループであり、感覚的な世界の知的な再構成を目指したとされる。要するに、文学とは何かの手段ではなく、それ自体に価値があるとするグループである。
文学史的な説明だとよくわからないので、三田誠広の『ワセダ大学小説教室 書く前に読もう超明解文学史』を開く。〔 〕内は、筆者補足。
- 川端の作品は、耽美小説であり、一種の幻想小説です。…… 〔『伊豆の踊子』の例をあげて〕こんな踊り子が、果たして存在するでしょうか。川端康成は、現実には存在しない、夢のようなイメージを描いているのです。…… 川端の作品には、幽霊も怪物もスーパーマンも登場しません。荒唐無稽なロマンスではなく、写実、自然、人間の三点セットをそなえた近体小説であるという、そういう顔つきをしながら、ほんの少し、嘘をついている。99パーセントまでリアリズムを維持しながら、一瞬だけ、幻想の領域に入り込んでいく。…… あの名作と言われている『雪国』だってそうです。
三田先生、よくわかりました。川端康成は言葉巧みなウソつき野郎だと言うのですね([追記]言い方が悪ければ、川端康成にとっての真のリアリティは「リアリズム」の中にあるのではないということ。2004/3/20)。
総じて小説家というのは、言葉巧みでウソつきなのだから、三田先生の評は最大限の賛美と言ってもいいかもしれない。しかし、自分にとって問題なのは三田誠広の川端康成評ではない。ノーベル文学賞をとった『雪国』が面白くなかったことだ。これは、自分の読解力のなさを示しているのではないかと少々悩んでしまうのであった。
- 参考:
- 『早わかり文学史』
- 『データ徹底分析 頻出 日本文学史』



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